FRAUD MAGAZINE

ガイス、サザランド、ホワイトカラー犯罪
GEIS, SUTHERLAND AND WHITE-COLLAR CRIME
−前編−
Part 1 of 2



Robert F. Meier, Ph.D


本記事は、ヘンリー・N・ポンテル(Henry N. Pontell)、デビッド・シホル(David Shichor)が編集した「犯罪および刑事司法における現代の問題:ギルバート・ガイス氏に敬意を表したエッセイ集(Contemporary Issues in Crime & Criminal Justice: Essay in Honor of Gilbert Geis)」(2001年発行)より抜粋、改編している。プレンティス・ホール社(Prentice Hall)出版の本集は、ガイス博士の75歳の誕生日を記念してまとめられた。2012年11月10日に他界されたガイス博士に敬意を表し、フロードマガジン(Fraud Magazine)の前身であるACFE白書(the ACFE’s The White Paper)の、2001年9月/10月号の記事を再版する。−編


 エドウィン・サザランド(Edwin Sutherland)とギルバート・ガイスは、共にホワイトカラー犯罪に対する強い関心を抱いていた。この2人の犯罪学者は異なる時期に、ホワイトカラー犯罪の理論と研究に重要な貢献をしている。本記事は、この両犯罪学者の功績と我々のホワイトカラー犯罪に関する理解を比較検討するために執筆されている。これにより、ギルバート・ガイスがこの分野に残した多大な功績が明らかになるであろう。

 本記事の主題を端的に表すと、エドウィン・サザランドが行ったホワイトカラー犯罪の先駆的な研究の裏付けは、いかなる学者が行った研究よりも、ガイス氏の研究によってなされたところが大きいということである。この裏付け研究は膨大なもので、サザランドの精力的な研究にもかかわらず、1950年に彼が他界した時点でもなお、大部分の仕事が残されたままだった。

 サザランドは多大な影響を残した一方で(「ホワイトカラー犯罪」という言葉を作ったのは同氏である)、彼がこの分野に最初に乗り出した後、それを補完するような確固とした指針や十分な実証的研究がなく、ホワイトカラー犯罪研究に混乱を招いた、という主張もあるであろう。サザランドが最初に提言し、ガイスがこの題材を主要な研究領域ならびに公益レベルへと引き上げたのである。

 サザランドの死直後のホワイトカラー犯罪に係る早期研究はあやふやなものであり、ホワイトカラー犯罪の概念をとりわけ洗練し築きあげたものではないとわかるだろう。ホワイトカラー犯罪という分野が評価されるようになったのは、サザランドの死後、20年ほど経ってからであり、これはギルバート・ガイスの力によるところが大きかった。

 本記事では、ホワイトカラー犯罪の理解におけるサザランドとガイスの比類なき貢献の各々の特徴を明らかにすべく、伝記的ならびに思考的アプローチを行うものである。



サザランドとホワイトカラー犯罪が内包する皮肉
(SUTHERLAND AND THE IRONY OF WHITE-COLLAR CRIME)



 エドウィン・サザランドが亡くなって63年が経つ。彼の犯罪学研究の主な対象は従来型の犯罪、路上犯罪であった。しかし、現代のホワイトカラー犯罪の理解における同氏の貢献は十分に明らかにされていない。サザランドはこの専門領域において先駆者であった。しかし、彼が残した研究は、ホワイトカラー犯罪という単語の意味、犯罪学者が望む理論的・実証的な理解の類を最も生成するとされる一般的アプローチにおいて、学者間での意見の一致を得ていないとされている。サザランドは20世紀の大半を通じてアメリカの犯罪学における先駆者であったが、その称号はホワイトカラー犯罪の研究に対してというよりも、分化的接触理論(theory of differential association)の提唱に対して与えられたものであった。1

 ホワイトカラー犯罪が持つ多文化的な性質とは対照的に、サザランドの経歴は実に牧歌的である。彼は1883年にネブラスカ(Nebraska)州のギボン(Gibbon)で生まれ、同州のグランド・アイランド(Grand Island、当時の人口6,000人)で21歳までの大半の時間を過ごした。1904年、当時父親が学長を務めていたグランド・アイランド大学(Grand Island College)を、1クラス70名の同級生と共に卒業した。2年間スー・フォールズ大学(Sioux Falls College)(サウスダコタ州)で教鞭をとった後、シカゴ大学(University of Chicago)で大学院生として社会学を学び、1908年までそこで過ごした。その後グランド・アイランド大学に戻り、1909年から1911年までそこで再び教鞭をとった。最終的にはシカゴ大学に戻り、1913年に博士号を取得した。サザランドの一家は大変信心深く、彼の教育はシカゴ大学を除いてすべて神学校であった。(グランド・アイランド大学とスー・フォールズ大学は共にバプテスト派(Baptist)であった。)

 サザランドが博士号取得後最初に教鞭をとったのは、ミズーリ(Missouri)州リバティ(Liberty)市にあるバプテスト派のウィリアムジュエル大学(William Jewel College)だった。退職後、1919年より米国中西部の大学を転々とした。1919年から1926年までイリノイ大学(University of Illinois、ここで犯罪学への関心を体系化し始めた)、1926年から1929年までミネソタ大学(University of Minnesota)、1930から1935年までシカゴ大学、1935年から亡くなる1950年までインディアナ大学(University of Indiana)に在職した。

 サザランドの最初の重要な犯罪学の教科書はイリノイ大学在職中に出版され、シカゴ大学在職中に、分化的接触理論が初めて暫定的な形で1冊の中に登場した。

 サザランドは1913年から1921年まで毎年犯罪学のコースで教えていたが、同氏曰く、「私の犯罪学における体系的な研究は、1921年にイリノイ大学の社会学学部長、E.C.ヘイズ(E.C. Hays)氏からリッピンコット出版社(Lippincott)シリーズで犯罪学の記事の執筆を依頼された時から始まった」(サザランド、1973年、13)。サザランドは犯罪学の分野では論文を書けなかった。同氏の論文のタイトルは「職業安定所(Unemployment and Public Employment Agencies)」で、シカゴ市の労働問題を取り上げたものだった。

 サザランドが受けた比較的牧歌的な教育を、シカゴ大学の多くの社会学者も同様に受けていた。「シカゴの学校」の教授陣は地元が抱える課題や問題を重視し、シカゴ市の枠を超えることはまずなかった。サザランドは田舎者ではなかったが、比較的閉じられた環境で生活をしてきた人間だった。青年期までグランド・アイランドを中心に過ごし、成年以降もなお、社会的にも知性的にも決して中西部のルーツから遠ざかることはなかった。

 シック・コンウェル(Chic Conwell、担当クラスの生徒)との共同研究、大都市シカゴでの刺激的な生活、すべての犯罪に適用しようとした分化的接触理論など、それらはどれも、直接的体験から犯罪知識を得た人物の研究であるかのような様相を呈している。ところが、サザランド自身が犯罪に巻き込まれたという記録は残っていない。彼自身はこの領域について内部情報に明るいという立場をとっていたが、彼が実生活で犯罪として頭に浮かぶものは、時おり傍若無人に振舞う学生や書籍の内容であって、個人的な経験ではなかった。

 「サザランドの個人的経験(Sutherland’s personal experiences)」(ガイス、ゴフ(Goff),1983, 178)をもとにしたドナルド・クレッシー(Donald Cressey)の話によると、サザランドは逸話を通して犯罪を実証することが多々あった。週末に靴のセールスマンをしている大学生の、取るに足らない不正行為の平凡な話などである。逸話は実に面白味のないもので、実際サザランドは例証目的でそれを誇張していた可能性がある。

 キャリアを通して、サザランドは犯罪者に焦点を当てた社会心理学的な見解を採り入れている。彼は還元主義者ではなかったが、思考の起点は常に、個々の犯罪者やその犯罪行為、犯罪を起こすに至った学習経験にあった。



ガイスとサザランド理論の拡張 (GEIS AND THE EXTENSION OF SUTHERLAND)


 ギルバート・ガイスは1925年にニューヨーク市(New York)で生まれた。ガイスが5歳の時に両親が離婚し、ブルックリン(Brooklyn)の2世帯住宅で母と祖母に育てられた。祖母は世界恐慌の時に密造酒を売って家族を支え、ガイスが13歳の時に亡くなった。母はマンハッタン(Manhattan)の会社で秘書として勤めていた。高校卒業後、ガイスは1年間ニューヨーク大学(New York University)で勉強し、第二次世界大戦で米海軍に入隊した。1945年に帰還し、コルゲート大学(Colgate University)、ホーリークロス大学(College of the Holy Cross)に入学した。

 コルゲート大学を卒業後、ストックホルム大学(University of Stockholm)に進学したが、金銭的に困窮し8カ月後に米国に戻った。ブリガムヤング大学(Brigham Young University)では学費がかからないことを知り、1949年に修士号取得のためユタ(Utah)州に渡った。その後、ウィスコンシン大学(University of Wisconsin)の社会学博士課程に進学した。ガイスはスカンジナビア地域(Scandinavia area)研究に関心があり、指導教師のスベン・ライマー(Svend Reimer)もハンズ・ガース(Hans Gerth)も犯罪には微塵も興味がなかった。ノルウェーでの実地調査に基づく論文の題材には、オスロ(Oslo)の市営映画館の運営およびノルウェー人のアメリカ映画に対する反応を取り上げた。

 ガイスは、主にプロテスタント、カトリック、ユダヤ教、モルモン教の学生が在籍していたという点で、自分が受けた教育を「キリスト教的な」ものとして述べているが、ガイスの執筆物には宗教的信念がほとんど見られない。

 ガイスは生計を立てるために大学在学中、新聞社で多くの記事を執筆した。生活の糧として人気のある定期刊行誌で執筆し、異なる読者層に合わせて同じ記事を違うバージョンで書くこともよくあった(例えば、「あなたと飼い猫」という記事を「あなたと飼い犬」「あなたと飼いインコ」のように雑誌によって変えた)。一時は、キャンパスから1時間ほど離れた学生寮からマディソン(Madison)まで大学のスクールバスで通っていた。そこで学友のフランク・レミントン(Frank Remington)と出会った。彼は後にウィスコンシン大学で刑法の有名教授となった。

 サザランドと同じように、ガイスも大学院卒業後に犯罪および犯罪学への関心が高まった。実際、犯罪学のコースを受講したことは1度もなかったとガイスは述べている。にもかかわらず、1952年にガイスは最初の仕事として、オクラホマ大学(University of Oklahoma)で人種関係学と犯罪学を教えている。人種関係学に対する関心から、アフリカ系アメリカ人の移住パターンについて、人類学者と共同研究を行った。この時期のガイスの犯罪学に関する特筆すべき仕事は、大学のキャンパスで起きたレイプ事件を扱う3流フィクション小説くらいだった。登場人物の1人は犯罪学教授だった。

 5年後、ガイスは13年間の在職期間を経て、ロサンゼルス(Los Angels)のカリフォルニア州立大学(California State University)での地位を確固たるものにした。その後1970年にカリフォルニア大学(University of California)アーバイン(Irvine)校で教授職に就いた。カリフォルニアでの日々が、間違いなく彼にとって最も生産的に研究を行えた期間であった。ガイスが当時執筆した論文の題材は極めて広い。例としては、少年非行、虐待、組織犯罪、信用詐欺、刑事司法、傍観者の介在、売春、ドラッグ、犯罪理論、犠牲者なき犯罪、そしてもちろん、ホワイトカラー犯罪も取り上げている。

 ガイスは常に、多文化的志向と、サザランドの研究における基本的な価値観とアプローチを組み合わせて研究していた。先述のサザランドは、犯罪への社会心理学的アプローチに大きな影響を受けており、特定の個々人の行動に関心を示した。分化的接触理論は構造レベルと個人レベルに適用可能と言えるが、サザランドの関心の中心は個人レベルであったことは明らかである。

 ガイスも自身の研究で個々の犯罪者に焦点を当てている。企業犯罪を題材に扱った際もである。しかし、ガイスはサザランドほど、自分が研究するホワイトカラー犯罪に対して畏敬の念を抱かなかった。サザランドにとって、ホワイトカラー犯罪者とは、自分が関わりをもつことができない存在であった。犯罪者は異なるバックグラウンドや関心を持ち、異なるライフスタイルで生活していた。ガイスは自身の研究で、サザランドのホワイトカラー犯罪に対する強い非難に共感しつつも、ホワイトカラー犯罪発生の背景にある社会状況についてサザランドより大きな理解を示していた。



皮肉を込める (THE USE OF IRONY)


 サザランドのホワイトカラー犯罪に対する関心は、犯罪者に皮肉を感じ取るところから始まっている。ホワイトカラー犯罪者の社会的地位は、このテーマに彼が惹かれつつも不快感を得るところでもある。社会的地位や名声があり最も「尊敬を集める」人物が、同時に、ホワイトカラー犯罪を起こし社会に非常に深刻な結果をもたらす重大な犯罪者でもあるというのは、疑いもなく皮肉なことである。しかし、ホワイトカラー犯罪の解明はとりわけ難題であるという点が、さらなる皮肉でもあるのだ。

 事実上、他のすべての犯罪理論は、早期の犯罪や非行行為を要因として説いている。しかし定義上、ホワイトカラー犯罪者はほぼ、法律を遵守する子どもや青少年、成人である。結果的にホワイトカラー犯罪者となる人物が、ホワイトカラー犯罪が起こり得る場所にいられるのは、その社会的地位にある。会社役員には前科はなく、無論そうでなければ重役会議室を占拠し続けることもできないであろう。彼らはアメリカンドリームの体現者であり、自然界や神から市場で成功する野心や手段を与えられた人間である。しかし、社会に与える損害を考えると、彼らは最も危険な犯罪者でもあるのだ。この意味で、サザランド(および20世紀前半の主要な理論学者マートン(Merton))は、アメリカでの(移民を惹きつける魅力である)「成功せよ」という理想の概念ではなく、この国の自由と選択が招く悲劇について言及している。マートンとサザランドにより理論化された犯罪者は、コインの両面を望んでいる。彼らは社会的恩恵を切望しているが、型通りにそれを得ることを望まない、もしくはその能力が備わっていない。また、自分の属する社会の欲望に囚われ、社会がもたらす欲望を満たす標準的な好機を逃してしまっている。ある者にとっての標準的な好機は、別の者にとっては非標準的な好機である。犯罪者は合法的に得られないものを欲するという自分なりの社会化を運命づけられている。残された唯一の選択肢は、非合法的に自らの欲望に従うことだけだ。

 サザランドがホワイトカラー犯罪の研究を行う最も重要な動機の1つに、自らの分化的接触理論の拡大解釈があった。サザランドの分化的接触理論に対する強い関心は、1940年代までに広く知られるようになった。この理論は執筆した教科書「犯罪学(Criminology)」(後の「犯罪学の原理(Principles of Criminology)」)に提唱されている。初版は1924年に発行され、そこでは犯罪行動理論は言及されていない。この本は犯罪学の教科書の先駆けの1つであり、当時の犯罪学の文献の事実上全概要を包含している。これは今日ではなし得ないことである。サザランドはこの本の中で、行動に影響を与えるのは遺伝ではなく環境によるところが大きいという理論を発表した。知識人が交わす議論に比較的新しく社会学的な旗印を誇りを持って掲げた結果、彼の専門家としての知名度は明らかに高まるものとなった。

 ヘンリー・マッケイ(Henry McKay)が自身の犯罪理論の中でサザランドの見解を補足するまで、この教科書は2版発行された。サザランド(1973年、15)はマッケイが言及した理論については知らなかったが、マッケイが記した1節を見つけ、犯罪は特定の都市部における文化的対立に起因していると読んで理解していた。当然マッケイは、ショー(Shaw)と自身が多分に支持した「自然領域(natural areas)」という概念にサザランドが、関心を示したことを喜んだ。しかし、サザランドは自分の提言が犯罪理論としてどころか、そもそも理論的であるかも危ういことを素直に受け入れられなかったように思われる。いずれにしても、1939年の次版までに、分化的接触理論はその仮説を、すべての犯罪ではなく「系統的な」犯罪における形式的理論にすぎないとして、以降の版では省くと明示している。サザランドの理論は、1939年度版の第1章全体を割いて展開されており、その理論をどれほど重要視していたかが見て取れる。2 次の版(1947年)では、現在知られている理論、すなわちすべての犯罪行為を説明する9つの命題が述べられている。

 サザランドの分化的接触理論への強い関心は周知の通りであった。熱心な研究の末、少なくとも1947年までには、その理論はすべての犯罪様式に対して一般的適用性を持つと同氏は考えるに至った。ホワイトカラー犯罪という題材はその適用性を実証する上で役立った。理論的優位性を保とうとするサザランドの努力は、別の欲求、すなわち、保守的で牧歌的なバックグラウンドに起因する道徳的に考察したいという欲求と関連していたのだ。
(フロードマガジン この記事は5月/6月号にて完結予定)FM



Robert F. Meier
ネブラスカ大学オマハ校(the University of Nebraska,Omaha)刑事司法コース教授。原版、改訂版含め15冊の書籍および50本以上の専門誌へ寄稿する著者/編集者でもある。


注記(Notes)
1 サザランドは分化的接触理論に9つの命題をたてている。1)犯罪行動は習得され、2)それはコミュニケーションの過程を経て他人から習得される。つまりそれは3)犯罪行動は親密な私的集団のなかで学習され、4)犯罪学習過程にはa)犯罪行為遂行の技術に加え、b)動機・衝動・正当化・態度の形成も含まれると指摘している。さらに、5)動機や衝動のある特定の方向づけは、法の規範を肯定的なものとするか否定的なものとするかという定義によって学習される。6)人は法の違反を肯定する定義づけが否定する定義づけにまさったときに、犯罪者になる。そして7)分化的接触は、頻度・期間・優先順位・強度の面で差が出ることもあり得るとした。8)犯罪および犯罪予防パターンを関連づける学習過程には、学習一般に作用するすべてのメカニズムを含む。9)犯罪行動は一般的な欲求および価値観の表現であるが、それらの一般的欲求および価値では説明することは不可能である。なぜなら犯罪者でない者の行動もそれと同じ欲求や価値観の表れだからである。
2 ドナルド・クレッシーが1955年度版で同著を引き継ぎ、第4章で分化的接触理論をさらに重要度を落として言及している。


参考文献(References)
ブリッキー・キャスリーン・F(Brickey, Kathleen F.)1995年「企業犯罪とホワイトカラー犯罪:事例とデータ(Corporate and White-Collar Crime: Cases and Materials)」第2版 リトルブラウン社、ボストン(Boston: Little Brown)
クリナード・マーシャル・B(Clinard, Marshall B)1952年「ブラック・マーカー:ホワイトカラー犯罪の研究(The Black Marker: A Study of White Collar Crime)」 ラインハート・アンド・カンパニー社、ニューヨーク(New York: Rinehart & Company.)
クレッシー・ドナルド・R 1953年「他人の金(Other People’s Money)」 フリープレス社、ニューヨーク(New York: Free Press)
ガイス・ギルバート 1967年「犯罪行動体系(Criminal Behavior Systems)」Pp. 139-150の「1961年重電機反トラスト事件(The Heavy Electrical Equipment Antitrust Cases of 1961)」より。 マーシャル・B・クリナード、リチャード・キニー(Richard Quinney)編 ホルト・ラインアート・アンド・ウィルソン社、ニューヨーク(New York: Holt, Rinehart & Winston.)
ガイス・ギルバート 1974年「犯罪学ハンドブック(Handbook of Criminology)」Pp. の273-298「趣味の犯罪(Avocational Crime)」より。 ダニエル・グレイザー(Daniel Glaser)編 ランド・マクナリー社、シカゴ(Chicago: Rand McNally)
ガイス・ギルバート、コリン・ゴフ(Colin Goff)1983年「ホワイトカラー犯罪:ノーカット版(White Collar Crime: The Uncut Version)」の「序論(Introduction)」より。
エドウィン・H・サザランド編 エール大学出版、コネチカット州ニューへブン
(New Haven, Conn.: Yale University Press)
ガイス・ギルバート、ロバート・F・マイヤー、ローレンス・S・サリンジャー(Lawrence S. Salinger)編 1995年「ホワイトカラー犯罪:古典的および現代的見解(White-Collar Crime: Classic and Contemporary Views)」フリープレス社、ニューヨーク(New York: Free Press)
ガイス・ギルバート 1995年「アノミー論の遺物(The Legacy of Anomie Theory)」Pp. 399-428の「クレッシー、ブレイスウェイト、フィッセの犯罪学理論と企業犯罪における見解の再検証、反証、および理解(A Review, Rebuttal, and Reconciliation of Cressey and Braithwaite and Fisse on Criminological Theory and Corporate Crime)」より。フレダ・アドラー(Freda Adler)、ウィリアム・S・ラウファー(William S. Laufer)編
トランザクション社、ニュージャージー州ニューブランズウィック
(New Brunswick, NJ: Transaction)
ガイス・ギルバート、イヴァン・ブン(Ivan Bunn)1997年「魔女裁判:17世紀の魔術の告訴(A Trial of Witches: A Seventeenth-Century Witchcraft Prosecution)」ルートリッジ社、ロンドン( London: Routledge)
ゴットフレッドソン・マイケル(Gottfredson, Michael)、トラヴィス・ハーシー(Travis Hirschi)1990年「犯罪の一般理論(A General Theory of Crime)」スタンフォード大学出版(コネチカット州スタンフォード Stanford, Conn.: Stanford University Press)
アルトゥング・フランク・E(Hartung, Frank E)1950年「デトロイトの食肉卸業で起きたホワイトカラー犯罪(White-Collar Offenses in the Wholesale Meat Industry in Detroit)」 American Journal of Sociology, 56: 25-35.
ジェシロウ・ポール(Jesilow, Paul)、ヘンリー・ポンテル、ギルバート・ガイス 1993年「儲けるための処方箋:医者はどのようにしてメディケイドから騙し取るのか(Prescription for Profit: How Doctors Defraud Medicaid.)」カルフォルニア大学出版、バークレー(Berkeley: University of California Press)
リマート・エドウィン・M(Lemert, Edwin M)1972年「人間の逸脱、社会的問題、社会的制限(Human Deviance, Social Problems, and Social Control)」 第2版 プレンティス・ホール社、ニュージャージー州アッパーサドルリバー(Upper Saddle River, N.J.: Prentice-Hall.)
サザランド・エドウィン・H 1940年「ホワイトカラーの犯罪行為(White-Collar Criminality)」 American Sociological Review, 5:1-12.
サザランド・エドウィン・H 1949年「ホワイトカラー犯罪(White Collar Crime)」ドライデン社、ニューヨーク(New York: Dryden)
サザランド・エドウィン・H 1973年「犯罪分析において(On Analyzing Crime)」 シカゴ大学出版、シカゴ(Chicago: University of Chicago Press)
トンリー・マイケル(Tonry, Michael)、アルバート・J・レイス・ジュニア(Albert J. Reiss) 編 1993年「法の逸脱:複雑な組織における犯罪(Beyond the Law: Crime in Complex Organizations)」シカゴ大学出版、シカゴ(Chicago: University of Chicago Press)
ウィルソン・ジェームズ・Q(Wilson, James Q)、リチャード・ハーンステイン(Richard Hernnstein)1985年「犯罪と人間性(Crime and Human Nature)」
著 ギル・ガイス:その男類(たぐい)なし (Gil Geis: Simply no one like him)


以下は、ACFEの創立者兼会長であるジョセフ・T・ウェルズ博士(Dr. Joseph T. Wells, CFE, CPA)が1999年に執筆したものであり、「犯罪および刑事司法における現代の問題:ギルバート・ガイス氏に敬意を表したエッセイ集」の序文である。−編

 1986年に故ドナルド・R・クレッシー氏より正式に紹介を受ける以前から、私はギルバート・ガイス氏を存じ上げていた。しかしながら、他の方々と同様、私も同氏の執筆物を通してしか彼を知らなかった。しかし、ドナルドの退職パーティのおかげで変化が起きようとしていた。
 その夜、ホテルのダンスホールには少なくとも100名の人々がいた。ドナルドの周囲には人だかりができていて、彼の気を引くのは難しかった。私はギル・ガイスがそこにいることをわかっており、重要な社会学的問題に対する私の考えに既に極めて大きな影響を与えていたその人物に、なんとしても会いたいと思っていた。「ホワイトカラー犯罪において(On White-Collar Crime)」という本を読んでいたため、私はギルが、幼少時代から読後、本をすべて記録していることを知っていた。この事実は私をすっかり魅了し、自分はなぜ同じ事を今まで思いつかなかったのかと不思議に思った。
 その夜のドン・クレッシーに対する私の執念はついに報われた。一瞬ドンの周りの人だかりが落ち着き、私は突撃した。「ドン」と呼びかけ、「ギル・ガイス氏にどうしても会いたいのだけれど」と伝えた。クレッシーはほほ笑み、私の肩越しに合図をした。「長く待つ必要はないよ」とドンは言った。「彼は君のすぐ後ろにいるからね」。私はがっちりとギルの手を握り、自己紹介をし、まるで彼がロックスターかのように褒めちぎり続けた。ギルが、私が何者かを知る由もないことは明らかだった。それにもかかわらず、彼は目の前の奇妙な男に非常に丁寧に接してくれた。
 ギルと会った頃、ドン・クレッシーと私は知り合って何年か経っていた。実のところ、私にギルの初期の著作物を紹介したのはドンであり、私はすっかり虜になり貪り読んでいたのだ。ドンやギルと違い、私は犯罪学を正式に学んだことがなかったが、約10年間学者たちとうまく共存してきた実績があった。私はFBI捜査官で、ホワイトカラー犯罪の調査と起訴を専門としており、約200件の有罪判決を得た経験があった。
 FBIを退職後、不正の発見、対策、教育を扱う調査兼コンサルティング業を始めた。そのキャリアの早期に、私はドン・クレッシーに巡り合ったのだ。彼は社会学的な背景に関して色々私に教えてくれ、同時に、事件の第一線での経験を持つ人間の話を聞けるのは彼にとっても非常に興味深いことだと言った。要するに、学術研究と「現実世界」が完璧に融合したのである。1987年7月にドンが突然この世を去った時、この融合は続かない運命にあった。私は友人を失ったばかりでなく、彼の聡明な助言までも失ったのだ。
 しかし、ドンの退職パーティの晩、彼もギルも私自身も、約15年後に私が世界最大の不正対策協会の最高責任者になり、ギル・ガイスが委員長になるとはとても見抜くことはできなかった。
 人生における多くの出来事と同様、ギルと私の間で起きた出来事は運命的だった。我々が出会った晩、私が当時住んでいたテキサス州オースティン(Austin,Texas)に、彼が別荘を所有していることがわかった。ギルはテキサス大学で教鞭をとる継息子のテッド(Ted)の近くに住むためにその建物を購入したのだ。当然の流れで、私は著名なギル博士に、オースティンに来た際は自分のオフィスに立ち寄ってもらうようお願いした。彼が訪問してきた時はひどく興奮した。私のオフィスから歩いてすぐのカッツ(Katz)の惣菜店でランチを食べるのが私達のお約束ごとになった。そこでコーシャーのピクルスと大きくジューシーなルーベン(Reuben)サンドを口いっぱいに頬張り、哲学的に思索したものだった。
 この時、私は新しい専門組織、公認不正検査士協会(Association of Certified Fraud Examiners)の設立の真っ只中であった。組織の目的は、不正とホワイトカラー犯罪の発見と抑止に専従する専門家達を評価し教育することであった。一般的なCFEは、企業および政府の不正検査士、不正対策に責任を持つ内部監査士、ホワイトカラー犯罪に特化している公認会計士である。
 どの専門職においても、最初に行うべきタスクの1つは、共通知識の体系化であった。我々は、公認不正検査士にとって4つの領域:不正調査の技術、不正の法的要素、不正の財務スキーム、犯罪学における専門知識が必要であると確信した。共通の知識体系は、まもなく作成する不正検査士マニュアル(Fraud Examiners Manual)に記載されることになっている。
 ギルは6ヵ月に満たない期間で、不正検査士マニュアルの犯罪学のセクションすべてを執筆した。犯罪学の原理をわずか400ページに凝縮するとは驚くべき功績であった。題材の多くはギルの記憶の中にあったからこそそれは可能であった。以来、ギルは「不正検査士マニュアル」の3つの別版を共著した。これは何万もの不正対策実行者を文字通り教育するために使われている。実に、公認不正検査士協会が設立された1988年以来、会員数は70カ国25,000人にまで拡大している。
 1992年、会員数がまだ5,000人にも満たなかった頃、私はギルに協会の委員長になってくれるよう依頼した。彼は、当時から現在までの500%の会員数増加に大きく影響している。勘違いしないでほしいのだが、ギルが組織を運営していたわけではない。それは私の仕事である。しかし、その運営方法を教えてくれるのがギルなのだ。そして、ギル以上に上手くやれた人間はいなかっただろう。

 ギルとの関係において1つだけ後悔していることがある。それは、もっと早い時期に彼と出会えなかったことである。ギルのクラスに出席して何時間も座り続け、真のマスターの1人である彼から学ぶことができたら格別光栄であっただろう。しかしながら、そうなる運命ではなかった。代わりに私はギルと、今後も続くであろう素晴らしい友情を何年にも渡って築き上げてきた。それは専門的な協同作業があろうがなかろうが関係ない。ガイス博士は私にとって、とてつもなく刺激的な人物である。ギルは、大半の人々が自分の成し遂げた事を回想するような人生の段階にいてもなお、次のチャレンジを心待ちにしている。回転が速く鋭い頭脳で、彼は同じ1文の中でも、教えることも楽しませることもできる。しかし、それが類稀なる人物、ギル・ガイス博士なのである。彼のような人物など、どこにも存在しないのだ。



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