FRAUD MAGAZINE

ACFEガーディアン賞受賞者、ダイアナ・ヘンリケス氏
‘THE WIZARD OF LIES’ describes a tragedy of Shakespearean proportions
『THE WIZARD OF LIES』の著者が悲劇を語る
An interview with Diana henriques, recipient of the ACFE’s Guardian Award


悪名高きポンジースキームの詐欺師、バーナード・マドフは、第四期の腎臓病を患い刑務所で死を待っている。刑務所でマドフと初インタビューの機会を得た記者、ダイアナ・ヘンリケス氏は、マドフがもたらした被害とその教訓に思いをめぐらす。




 5ヵ月という月日を隔て、彼は2人の異なる人物だった。身なりがきちんとし的を射て話す2010年8月の人物。身なりが乱れとりとめなく話す2011年2月の人物。

 悪名高きポンジースキームの詐欺師、バーナード・マドフを初めてインタビューしたダイアナ・ヘンリケス氏は、刑務所での最初の面会での彼の様子を「優雅な振る舞いで手際よく、魅力的だったとさえ言える」と述べている。

 「彼は会話のそこここでお世辞を言ったりしました」と本誌との最近のインタビューでヘンリケス氏は言う。「私の知識がいかに豊富で、ウォール街の歴史に詳しいことに彼がどれほど感心したか、この事件に関する私の報道がいかに公平でプロフェッショナルであったか、私が明らかにかなりの下調べをしてきたことなどについてです」。

 マドフがペテン師で嘘つきであることを知っていたにも関わらず、褒め言葉をうれしく思ったことは、今になって考えてみても興味深いものだったと、ヘンリケス氏は言う。「人々がまだマドフをウォール街の天才だと思っていた頃、彼の魅力がいかに強烈なものであったか、私自身よく理解することができました」。

 マドフの長男、マークの自殺のわずか2ヵ月後の二度目の訪問で、ヘンリケス氏はまったく異なる人物に会ったと話している。マドフは「痩せて、無精ひげを生やし、身なりが乱れ、とりとめなく話し、家族に対する罪の念に囚われていました。被害者に対する彼の自責の念は私の目にはいつもいささかうわべだけのものに見えましたが、家族の失墜に対する苦悩はどう見ても本物に見えました」。

 懲役150年の判決を受けたマドフは、ノースカロライナ州バトナー郊外にある連邦刑務所の独房で死を待っている。マドフは第四期の腎臓病を患っており、家族にも見捨てられた。一方、マドフの管財人アービング・ピカードはその多くが生活を破壊された被害者のためにできる限りの資金回収を試みている。

 ヘンリケス氏は、2008年にタイムズ紙でビジネス速報のニュース記者をしていた際にマドフのポンジースキームに関する執筆を始めた。「ウォール街で最も信頼され、尊敬されていた人物の一人が巨額な世界的不正を犯し、実の息子たちに通報された」という劇的な話の虜になったと、ヘンリケス氏は言う。彼女は自身の調査を2011年発行のベストセラー『The Wizard of Lies: Bernie Madoff and the Death of Trust』にまとめた。そして、改訂された最新版がペーパーバックで最近発売されている。

 「私は、シェイクスピアの物語とも言えるこの出来事から、不正がいかにして起こるのか、読者に新たな2つの視点を得てもらえればと考えました」ヘンリケス氏は言う。「一つは、バーニー・マドフのような人物が私たちとは全く異なる種の人間、つまり分別のある人であれば誰でも簡単に見抜き、避けることができる非道な人物であるという、安心できる、しかし誤った考えと闘うことでした」。

 「第二に、私たちがいかに自分自身を欺き、すべての詐欺師の約束の根底にある『不確実なこの世界における非現実的な確実性の追求』がいかに私たちをバーニー・マドフのような人間の標的とならしめているか、読者により一層理解を深めてもらいたかったのです。またそれ以上に、この歴史的な不正について最も信頼のおけるできる限りの詳細を集めたい、将来歴史家がこの事件とその背景を理解するのに頼れるようなものにまとめたいと思いました」。

 ヘンリケス氏は今年の夏に行われた第23回ACFE年次総会で基調演説を行い、ここでACFE初のガーディアン賞(Guardian Award)を受け取っている。同賞は真実への決意と忍耐力、そして献身が、不正の重要問題および不正摘発と防止のための世界的な試みにスポットライトを当てたとして、不正との闘いに大きく貢献したジャーナリストに送られるものだ。



マドフの性格と心理 (MADOFF’S PERSONALITY AND PSYCHE)


FM: 今世紀の頭、マドフはどのようにして、新しい投資家は受け付けない、必要な資金は十分にあるという印象を強めていったのでしょうか。

DH: マドフに投資を託すということは、常に「ベルベットのロープ」のような質を伴うものでした。1990年代後半まで、マドフは各現金源から他の資金源のほとんどを隠しておくことができました。そのため会計事務所アベリノ&ビエネス(Avellino & Bienes)のクライアントや、スタンリー・チェイスに資産運用を任せるハリウッド関係者、信頼ある地元の株式仲買人に誘われたミネアポリスの投資家たちなど、誰もが個人的にマドフに資産運用を頼むのは不可能だと考えていました。マドフ個人が扱うのはごく限られた一流の顧客だけで、その高級クラブに入れたことを幸運に思っていたのです。ヘッジファンド事業が軌道に乗った時、マドフは同様の特権的な雰囲気を維持しました。おそらく、それがとても便利だったからでしょう。結局のところ、彼が新規クライアントの拡大に乗り気でなかったことは、宣伝をしたがらなかったことや経歴を自慢しなかったこと、自身の基金を設立しなかったことなどの理由になった訳です。彼は、評判は単なる頭痛の種にしかならない、評判を広めて欲しくないと、クライアントに説明しました。クライアントを断り、相手の気持ちを傷つけ、反感を買う結果になるからだと言うのです。そして彼は、入れてあげるけど他言してはいけない、でなければ皆が入りたがる、と、最終的にはクライアントを受け入れるのです。このことは、さもなければウォール街の風潮と完全に相反する秘密主義へのこだわりを説明してくれたのです。

FM: マドフは失敗を受け入れることができなかったと書かれていますね。これが彼の失墜となったのでしょうか。

DH: そうだと思います。出来損ないの自分よりも嘘つきの自分の方が楽だと考えた訳ですから。彼の大罪は、欲ではなくプライドだったと言えるでしょう。

FM: ポンジースキームを行っている間、マドフはどうやって正気を保つことができたのでしょうか。

DH: 彼自身も不思議に思うことがあると、マドフは何度か言っています。彼は明らかに自身をコンパートメント化できる大変な能力を持っていました。それから忘れてはならないのは、ポンジースキームで最も陰湿な側面の一つが、音楽が止まるまで被害者が皆無であるかのように思える点です。ですので、彼が毎晩出かけて人々にナイフを突きつけて強盗に及んでいたわけではありません。なんとかして誠実な側に戻ることができると自身に言い聞かせ、自分に嘘を付いていたことは間違いないのです。



不正の実態 (INSIDE FRAUD)


FM: ルース・マドフとその息子は無実だと強く主張していますね。これはどういった証拠に基づいているのですか。

DH: 記者として、私はその質問に別の方向から向き合わなければなりませんでした。つまり、彼らが無実ではないことを示すどういった証拠があるかということです。
正直申しまして、ルースと息子たちがマドフの共犯であるとは心理的に考えても私には合点がいきませんでした。
ルースを昔から知る人々は、彼女のことを快活で伝統的、夫を天才で偉人であり、優れた男だと敬愛する、いくぶん世間知らずな妻と表現しています。このことは、著書の取材で行った幾多にも渡る彼女との会話から私が受けた印象と同じものです。そしてこれは、バーニーが冷血な詐欺師であるばかりか、彼女の家族とその友人すべてに対し盗みを働いていた、そして息子たちを犯罪活動に引き入れたことを、ルースが初めから知っていたという説と、単に矛盾するものだからです。もう少し実際的な面では、ルースはバーニーが浮気していたと考えていますが、彼女がいつでもFBIに密告できるような立場にあったとしたら、バーニーは浮気などしたでしょうか。
マドフの息子たちに関しては、不正が私の考えるようにかなり昔に始まっていたとすれば、当時彼らはせいぜい小学校を卒業したばかりだったということです。同族会社が本当は詐欺であり、いつ破綻してもおかしくないと、父が息子に秘密を打ち明ける様子を想像してみてください。特にアンドリューは、父とは多少言い争うような関係にあり、マークは不幸にも、絶え間ない精神的重圧に耐えることのできない臆病者でした。バーニーがそのような致命的な秘密を息子たちに打ち明けたと思いますか。先ほど申しましたように、彼らが共犯であるという考えはピンとこないのです。
また、2005年にマドフが直面した絶望的な財政難の際にも、バーニーの家族は不動産のローンに「バーニー銀行」の資金を利用していました。彼らが犯罪に加担していてマドフのポンジースキームがいかに崖っぷちに立っていたのかを知っていれば、このようなことは起こらなかったでしょう。また同時期、マドフの共犯者の少なくとも2人が自身の銀行口座から多額の資金を引き落していますが、彼らはそれをしていません。そして最後に、破産裁判所で史上最大の一事例に数えられるほど広範囲に渡る書類捜査が行われたにも関わらず、この3年間で有罪を示すポストイットが何一つ見つかっていないということです。注目すべきことに、マドフの管財人でさえもルースとその息子らが不正を知っていたとは主張していません。彼が主張しているのは、証券業界のプロとして、息子らは不正に気づくべきだった、あるいは不正が行われていないか調査すべきだったという点だけです。

FM: 1962年にマドフが直面した株式市場のトラブルはどのようなものだったのでしょうか。その時に規則をまげたことがその後の問題につながっていったのでしょうか。

DH: マドフが個人で証券会社を始めたわずか2年後の1962年までに、彼はすでに数十人の親戚や友人、そして親戚の友人たちの資金を運用していました。その年5月、株式市場は乱気流に突入しました。これは今日の株式市場史ではささいな出来事に過ぎませんが、その時は1929年の大暴落以来最悪の1週間だったのです。マドフはクライアントの資金を店頭市場の脆弱な新しい株式に投資しており、破産しました。クライアントの資金を失ったことを明かし失敗を認めるか、それとも天才のイメージが維持できるよう自分で損失の埋め合わせをするか、選択に迫られたマドフが躊躇することはありませんでした。損失を埋め合わせ、嘘を付いたのです。その時に失敗を受け入れるだけの勇気が彼にあったとしたらどうなっていたか、想像するのは興味深いことですが、そうなっていたとしたら、バーニー・マドフという人物はもっと別の人だったでしょうね。

FM: ヘンリケスさんの著書から、マドフは立派な道徳の持ち主ではなかったように思えますが、1987年株式市場大暴落(ブラックマンデーおよびブラックチューズデー)後の資金難が彼をポンジースキームへと押しやった主な要因になったのでしょうか。もしそうであれば、彼がこの不正行為を始める原因となり得たのはどのような状況だったのでしょうか。

DH: もちろん、マドフが最初から不正を行うつもりだった可能性はあります。ですが、私にはそうとは思えないのです。マドフは初期の頃同様、ウォール街における道徳の灰色の境界に難なく立っていたと私は考えていますが、それでも信じ難いことです。1987年の大暴落後、マドフの最大の個人投資家の中には利益を再投資し続けると断言したにも関わらず、パニックに陥り資金を引き出す投資家もいたと彼は言っています。マドフによると、1992年までは苦境にはあったがそれでも誠実にビジネスを行っていた、しかしもはや資金繰りができなくなり、ポンジースキームでのごまかしを始めたと言います。私の基本的な理論は、市場が良く誠実な取引をしても天才に見える時、彼は誠実で、そうでない時は誠実ではなかった。まあ、単なる知識に基づいた理論ですが。

FM: 著書の中でNASDAQは当初、全国証券業界(National Association of Security Dealers, NASD)の緩い規制に悩んだとおしゃっていますね。「違反行為に対する処罰が緩く遅い」と書かれています。NASD理事会への関与が、マドフにポンジースキームを隠し続けることができると思わせたのでしょうか。そしてそれは、どうしてでしょうか。

DH: もちろんです。マドフはNASDAQ市場で悪行の処罰から逃れることがいかに簡単かを誰よりも良く知っていたのですから。驚くべきことは、彼は不正を行っている間ずっと、常に自分の会社の公的な投資履歴を清廉潔白にしておいたことです。マドフの会社の履歴は90年代半ばに市場を襲った巨大な価格操作スキャンダルにないのが露骨に見て取れますし、長年を通じてわずか一握りの些細な違反しか存在しないのです。またNASDの緩い規制以上に彼を後押ししたのは、マドフのポンジースキームが行われた業界、つまり民間の資産運用会社とオフショアのヘッジファンドという世界が、まったくと言っていいほど誰にも規制されていなかったということです。事実、マドフを失墜させた2008年の金融危機後の改正まで、取り締まりはかなり緩いものでした。

FM: 親族に対する不正はどのようにマドフの策略の一部となっていったのでしょうか。

DH: マドフの最初のクライアントが親戚や義父の知り合いであったことは間違いありません。その多くはユダヤ系の事業や社交、慈善活動の知り合いでした。複数の大きなユダヤ系カントリークラブがマドフの不正で深刻な被害を受けました。著名なユダヤ系の慈善団体や大学も同様です。しかしヘッジファンドに手を出し始めた頃には、マドフは機会均等の嘘つきでした。彼の被害者はイスラエル人もいればアラブ人もおり、中南米の実業家からスイスの銀行家、由緒あるグリニッチの名家から建設作業員の年金に至っています。

FM: マドフの事業に関する1992年のSECの捜査はもちろん不十分なものでしたが、これはマドフと彼の会社にどう影響したのでしょうか。

DH: SECがマドフの長年に渡るベビーファンドの一つ(会計事務所アベリノ&ビエネスが経営していたファンド)を捕まえ閉鎖したのは、事実マドフにとって破滅的な危機となり得ました。第一に、マドフはSECの監視の下、投資家たちに返金するために4億ドル以上を現金で工面しなければなりませんでした。そして次に、その現金を自身の管理下に戻し入れるために、かつては同会計事務所により一握りのクライアントにまとめられていた何千もの個人クライアントを受け入れなければなりませんでした。こうした経緯で、彼は自分が扱うことのできるクライアント数を拡大できるようなコンピュータプログラムを開発せざるをえなくなったのです。

FM: マドフは不正が始まったのは1992年だと言っています。ヘンリケスさんの著書には「少なくとも1980年代までには」始まっていたとありますね。むろん開始時期は政府が被害者のために請求できる額に影響してきます。これまでのすべての調査を踏まえて、現時点で、マドフの事業がポンジースキームになったのはいつと考えるのが最も妥当でしょうか。

DH: 知識に基づいた推測でなく、はっきりと答えることができれば良いのですが。ポンジースキームが1992年以前から始まっていたという私の考えは、主に市場分析に基づいています。マドフが追求したとする投資戦略からの利益と投資家が当時受け取ったと記憶する利益を比較してみたのです。マドフは断固として否定していますが、彼は投資とポンジースキームの境界線を何度も行き来していた可能性があります。またポンジースキームを本格的に開始する以前に別の方法で不正を働いていた可能性もあります。少なくともマドフの下で長年働いた従業員の一人は彼が早くとも1978年には裁定取引をごまかしていたことに気づいていたと供述しています。しかし、私が取材をした市場参加者は、マドフが当時本物の裁定取引を行っていたことは間違いないと言うのです。ですので、マドフが単にある日はっきりとした境界線を越えたというわけではないのだと思います。長年にわたり境界線を行き来していたのかもしれません。

FM: マドフはどうやってこれほど長い間不正を行うことができたのでしょうか。

DH: 一般的な誤解とは逆に、マドフはとてつもなく高い額の利益、出来すぎと思えるほどの利益を支払ったことは一度もありませんでした。フィデリティ・マゼラン・ファンドといった人気のパブリックミューチュアルファンドが市場平均を下回った年もありましたし、ヘッジファンド業界のレーティングは常に芳しいものではありませんでした。彼は巨大な利益ではなく、堅実性を売りにしたのです。これが得たばかりの現金を何度もより長く投資し続けるという、嬉しい副作用をもたらしました。典型的なポンジースキームのように並外れた利益を支払っていたとしたら、そうはいかなかったでしょう。

FM: 今世紀初め、SEC職員は緊縮財政が主な原因で絶え間ないプレッシャーにさらされていたと書かれていますね。離職率が高く、職員の多くが経験不足できちんとした訓練を受けていなかったとあります。こうした状況がどのようにしてマドフのような不正が見過ごされる結果を招いたのでしょうか。

DH: 当時は予算難のため、規制者は限られた資源を最も打撃を与えることができるような種の不正行為に当てる、いわばトリアージ方式の捜査を余儀なくされました。ある例では、マドフの不正を暴く寸前にあった捜査官たちをミューチュアルファンド業界の大スキャンダルの捜査に引き抜いたことがありました。分からなくもありません。アメリカ人は多額の資金をミューチュアルファンドに投資していたため、綿密な捜査が不可欠だと上司たちは考えたのです。また新人たちの経験不足は当時特に大きな打撃となりました。なぜならウォール街自体が巨大な変化の最中にあり、グローバル化と自動化が着々と進むにつれより解析が困難で複雑になっていったからです。

FM: ハリー・マルコポロス(CFE, CFA)は9年もの間マドフの事業には問題があるとSECに忠告し続けましたね。それは無駄に終わったわけですが、ヘンリケスさんはアイビー・アッセット・マネジメント、複数のコンサルタントやプライベートバンキングのチーム、著名なヘッジファンド経営者たちがマドフのでたらめを見抜いていたと書かれています。ですが、一人として受話器を取って取締機関や法執行機関に通報しなかった。なぜだと思いますか。なぜウォール街全体に警告しようとしなかったのでしょうか。

DH: ウォール街は現在も過去も常に密告者を嫌う風潮があります。マドフのスキャンダルだけでなく、ここ数年重大ニュースとなったその他数多くのスキャンダルで根本的に最も憂慮すべき側面の一つです。自分の兄弟がウォール街をうろうろしている分には見張る必要はないと思っていたようです。誠実な人々でさえも疑念を取締機関に通報する義務はないと考えているようでした。
共犯者を一度も密告しなかったという理由でマドフが刑務所で一目置かれていることはご存知でしょうか。ちなみに共犯者らは今ではもう自白していますが。囚人は悪事をばらさない人を尊敬します。私たちは彼らよりも見識があると思いたいのですが、残念ながら証拠はありません。私たちが社会全体として密告者を「垂れ込み屋」や「裏切り者」、「おしゃべり屋」や「告げ口屋」ではなく、尊敬されるべき勇敢で立派な人と見なすようになるまで、私たちの腐敗を防止する能力は今後も深刻に阻まれていくでしょう。

FM: 2006年5月19日、SECの職員5人がニューヨークのSEC事務所でマドフを事情聴取していますね。マドフは「これで最後、ジ・エンドだ。月曜の朝には証券保管振替機構(DTCまたはDTCC, Depository Trust & Clearing Corporation。ウォール街の中央清算機関に当たる)に電話が行き、それで終わりになるだろう。だが何も起こらなかった」と考えたと書かれていますね。マドフは事情聴取を切り抜けたわけです。SECの捜査班は、不正は存在しないとして結局は2008年1月3日に捜査を打ち切りました。その数年間SECはマドフの不正を見抜く一歩手前にあったわけですが、彼は常にそれから逃れてきたのです。これは彼らがマドフをフロントランニング(実際にはそうではなかったのですが)だと考えたからでしょうか。より詳しい捜査が必要とは思わなかったのでしょうか。

DH: その通りです。SECはマドフが自身の合法的な会社が扱う膨大な量の注文をうまく利用し、それらの注文前に取引をして違法の利益を確定する、フロントランニングを行っていたという基本的な姿勢を持っていました。悲劇にも、マドフは規制側とその他多くの人々が持っていたポンジースキームの犯行者のイメージ(これは完全に間違ったものなのですが)に当てはまらなかったのです。確かに、これは粘り強さと捜査技術の破滅的な失敗ですが、根本的には想像力の大きな失敗でした。マドフのような人物がポンジースキームを行っているなど、彼らは単に信じることができなかったのです。実際には常に、成功が目に見えていて、一見したところ信頼できそうで、世間から広く称賛されているマドフのような人物こそがポンジースキームを働くのです。ポンジースキームが出来るのは彼らのような人物だけです。きょろきょろした目つきのダメ人間はあなたを襲って金品を奪ったり車を盗んだりするかもしれませんが、あなたをポンジースキームに誘い込んだりはしませんよ。

FM: 2008年の経済不況が始まった後、最終的にマドフを観念させた最後の一撃は何だったのでしょうか。

DH: 市場の大混乱にも関わらずマドフはタップダンスを続けようと思えば続けることはできたと言っています。それでも彼に資産運用を任せたいという人はいたと繰り返して主張し、混乱が収まるまでゲームを続けるだけの十分な現金を新たに集めることは可能だったと断言しています。ご存知のように市場は2009年春までにはかなりの落ち着きを取り戻しました。マドフのこの主張を鵜呑みにすべきではないと私は思います。2008年の金融危機は彼がこれまで経験したものよりもはるかに深刻であったと認識できるほど、マドフは長い間ウォール街で働いてきました。システム全体が惨事の瀬戸際にあったことは彼自身分かっていたはずです。彼は犯罪を続ける努力に疲れ、その年の感謝祭までにはもうすべてを破綻させる決心が付いたと言っています。ですが、続ける気力がなくなったのは彼の考える状況の深刻さの表れだったのではないかと私は思います。



破綻後 (AFTER THE COLLAPSE)


FM: 6月にバーニーの弟ピーター・マドフはマンハッタンの連邦地方裁判所で有罪を認め、懲役10年、罰金1,430億ドルの判決を言い渡されましたね。私が理解するところでは、ヘンリケスさんとピーター・ラトマン氏がニューヨーク・タイムズ紙で報じたように、有罪答弁はピーターが兄のポンジースキームを知っていた、あるいはそれに加担したことを認めているわけではないということです。むしろ、ピーターはマドフの事業に対して法的監視をほとんど行わなかった見せかけだけのコンプライアンス・オフィサーで、事実上兄の犯罪を可能にしたという、政府の主張を裏付けるものであると。このことはヘンリケスさんの調査や取材と一致するものですか。またこれは政府が他のマドフ関連の事件で繰り返し使っていく検察側の作戦なのでしょうか。

DH: 本質的には、政府はコンプライアンス・オフィサーおよび証券業界のプロとしてのピーター・マドフの怠慢に目を向け、これらは刑事過失に値すると結論付けました。兄が巨大ポンジースキームを隠蔽するために見え透いたまねごとに頼っていたとは知らなかったにも関わらず、です。ピーターはマドフの会社の重役で、弁護士としての経歴を持つ経験豊かなプロであり、自身の働く業界の規制制度に精通していました。この事件でさほど重要でない人物は大半が彼のようなプロフィールに当てはまりません。ですが明らかにマドフの周りには「バーニーの貯金箱」をうまく利用して会社の金で贅沢に暮らしていた人々がいるのです。彼らもピーターと同種のIRSの罪に問われる可能性は十分にあるでしょう。

FM: 車輪はゆっくりですが意図的に回っていますね。現在のところ(本記事印刷時)、検察は何らかの関与があったとして13人の容疑者を起訴し、うち8人が有罪を認めています。他にもマドフの同僚やベビーファンドの社員が何人も起訴されると思われますか。

DH: マドフの社員がピーター・マドフや元社員クレイグ・クーゲルが罪を認めた租税関連の罪と同類の罪に問われる可能性は確実にあるでしょう。ベビーファンドの社員に関しては、少なくとも米国での刑事訴追の可能性は低いと思われます。バーニー・マドフを信頼することで完全に破滅した被告人たちに犯罪意識とその知識があったことを証明するのは難しいと思います。他国は金融業界のプロに対し異なる責務を定めた法を有していますし、オフショア・ベビーファンドの事件を扱うのにより適したツールを持っているかもしれません。

FM: ピカードによる被害者のための資金回収作業はどうなっていると思われますか。

DH: ピカードの仕事は回収作業を始めた最初の2年の広報活動が大失敗したために、評判を落とすことになりました。彼の義務は被害者にきちんと説明されておらず、また政策立案者や一般人もこれを十分に理解していなかったため、結果として彼は議論の矢面に立たされてしまったのです。事実、裁判所は最も激しい論争となった被害者の請求額をどうやって計算するかという問題に関して、ピカードは全く正しかったとの判断を下しています。彼は投資家の損失額を投資家がマドフに預けた現金とスキーム崩壊以前にマドフから受け取った現金の差額で計算しました。このやり方が自分に不利な人々はあらゆる場で激しく、そして派手に抗議し、逆に有利な人々は概して沈黙を保ち、自分たちの代わりにピカードを戦わせたのです。ですので、ピカードの回復作業の進み具合はこの論争の煙幕を吹き飛ばして考えなければなりません。示談解決では、約110億ドル(本記事印刷時)を回収しており、うち20億ドルは司法省に納めることになります。彼が新たな訴訟に勝利したり示談がまとまったりすることがなければ、約180億ドルの現金純損失額に関しては、現時点では1ドルにつき60セント回復可能でしょう。FRAUDマガジンの読者の皆さんはご存知かと思いますが、これは現金がすべてなくなってから崩壊するポンジースキームの世界ではすばらしい成果です。

FM: マドフから有益情報はすべて聞き出すことができたと思いますか。

DH: そう思います。彼は第四期の腎臓病を患っています。息子マークの死で精神的に打ちのめされていますし、弟に対して刑事訴追を行っている政府に怒り狂っています。今のところこの犯罪捜査に一切協力していない様子から考えると、彼が生きている間に重要な新事実が明らかになると期待するのは現実的ではないでしょう。



マドフ事件からの教訓 (THE MADOFF LESSONS)


FM: マドフは21世紀に規制側が一般市民を守ることの難しさを露呈させたと書かれていますね。簡単に説明していただけますか。

DH: これはいかにして投資家を守るかと言う根本的な議論に戻ります。各投資機会についてそれが一般市民に提供される前に政府の取締官が評価を下す、証券法専門の弁護士の言う「メリットレビュー」を通じて、私たちは投資家を保護しているのでしょうか。それとも、各投資のリスクについて投資家に正確な情報を十分提供すれば、彼らは自分で自分の身を守るだろうと期待する、「全面開示」に頼っているのでしょうか。
1933年、米国は「全面開示」体制を採用し、これは長い間うまく機能していました。しかし当時はウォール街の小売市場は主に裕福な人々や信託基金の役員といった金融市場の専門用語に精通していてリスクを難なく評価できる人々から成っていました。これは今日の世界とは異なります。かなり基本的な投資ポートフォリオでさえも、その運用に必要な時間や金融知識を持っている投資家はほとんどいないのです。そこで面倒な作業を信頼できる誰かに頼もうとするわけですが、信頼を託すというのは合理的な決断ではなく感情的な過程です。人々が信頼に基づいて思い切って投資した結果生じるリスクにどのように対処すればよいのでしょうか。私には確実な答えはありません。私の著書では枠にとらわれないアイデアをいくつかご紹介しましたが、一つ言えるのは「全面開示」だけでは答えにならないということです。少なくとも、従来の読み書きの能力同様、金融関連の読み書き能力も一般市民の教育の中心にしなければなりません。

FM: ドッド・フランク法の一部もしくは完全な撤廃について、ヘンリケスさんはどう思われますか。

DH: 1929年の大暴落を受けてSECを設立したニューディール法や2002年のエンロン事件直後に採用されたサーベンス・オクスリー法に至るまで、危機やスキャンダルに続いて慌てて採用されるどの金融改革もそうであるように、ドッド・フランク法は何らかの改正が必要です。ばかばかしいほどの量のマイクロマネジメントを伴いますし、中にはその価値以上に問題が多い条項があることがきっと明らかになってくるでしょう。しかし景気回復という名目でのドッド・フランク法撤廃は非常に曖昧な発言をすることになってしまいます。金融規制は成長の敵であり、誠実な資本の見方ではない、と。私はこの考えには反対ですし、資本主義の父である哲学者アダム・スミスも同意見です。1933年以来の金融史からも厳しく賢明な規制が強固で実り多い市場を創り出すことが分かります。私たちは歴史の教訓を無視して自分たちを危険にさらしているのです。

FM: ジョセフ・T・ウェルズ博士(CFE, CPA)は不正調査が必要になる前にそれを阻止する、不正防止という明確な目的で1988年にACFEを設立しましたね。不正防止、特にポンジースキームの防止に努める公認不正検査士(CFE)に何かアドバイスはありますか。

DH: 不正対策の専門家にとってマドフ事件から得られる最も重要な教訓は、抑止対策はそれがいかに綿密なものであっても、自分たちが最も信頼する相手に対して適用されないのであれば、効果はないということです。最も信頼する相手は、当然ながら私たちに対して最も容易に盗みを働くことができる人たちです。二番目に重要な教訓はポンジースキームを行うことがいかに簡単かを理解することです。ポンジースキームとは単なる銀行口座を持った嘘つきなのです。ですので、常に財政的に成功する理由リストの上位にあるべきです。ポンジースキームをより困難にする第三者の保管機関を使用するといった基礎的なトリップワイヤーが存在しない場合は特に、です。

FM: 不正防止を助けるために企業社会や公共部門、非営利団体、そして社会に対してCFEができることは何でしょうか。

DH: 何といっても、何が誤った方向に進んでしまうかという理解でしょう。部門に関わらず防御対策をとらなければ時には最悪の悪夢が現実のものとなることをクライアントに再認識させるのがCFEの役目です。

FM: なぜCFEはマドフの心理を理解する必要があるのでしょうか。

DH: マドフが私たちの考える典型的なポンジースキーム実行者とは根本的に異なっていたこと、それでいて彼が、信頼感を抱かせ、質問をそらし、疑問を抑え込む能力を持つ成功したポンジースキーム実行者とまさに同様であったことがその理由です。彼の逮捕後の規制史からも分かるように、世の中にはまだまだ多数のバーニー・マドフが存在するのです。

FM: なぜビジネス記者になろうと思われたのですか?ヘンリケスさんにとって新聞業界の面白さは何ですか。

DH: 最初に記者になろうと思ったのは10代の頃です。私の出身地、バージニア州ロアノークで初めて見たニュース編集室に溢れる興奮と好奇心、仲間意識に心を奪われました。ただし、最初は政府と政治関連のニュースを専門にしようと思っていました(正確には海外特派員になることでしたが、米国を拠点とする企業幹部の夫との結婚でこの野望は嬉しくも打ち破られました)。1980年頃、ニュージャージー州トレントン・タイムズ紙で州と地元政府の報道担当をしていたところ、州の公的歳入担保債の管理局が関与する縁故主義スキャンダルに遭遇しました。この管理局は恐るべきニューヨーク・ニュージャージー港湾公社をひな形にして作られた多数の歳入担保債管理局の一つでした。この事件の真相を突き止めるには、免税債市場の難解な仕組みを完全に理解しなければなりませんでした。そして理解した途端、債券市場をはじめとするすべての市場に単に魅了されたのです。そしてより重要なことに、これらの金融市場が私たちの毎日の生活にいかなる影響力を有しているか、そしてマスコミで働く私たちがこの影響力を一般の読者、一般市民が理解できるような記事にまとめることがいかに重要かということにすぐに気が付きました。そして、それが私の使命となったのです。私が記者という将来の夢を抱いていた頃、ジャーナリズムの世界で働く女性は皆無に等しかったので、母は私が教師になることをずっと望んでいました。ある意味で、母の望みどおりになったのだと思います。



Dick Carozza, CFE
フロード・マガジンの編集長。


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